我が校の自治とは何であったか②「学校における、または学校の自由とはなにか。生徒の自由とはなにか。」

前回のエントリ:http://d.hatena.ne.jp/inosinmk2/20060626/1151277716
 
 
まずは学校の始祖である大学から話をはじめよう。
かつて大学は純粋な学問の場として作り出された。
そしてそこでは社会的な、現実的な諸問題から解放されて自由に学問が営まれた。
学校における学校の自由とは学問を守るための社会からの自由なのだ。
時を経て我々はそれを失いかけていると言うのは、近年よく聞かれる批判である。
古来の学問はとりつぶされ、下世話な社会問題に答える事を大学が目指してしまっている。
そして大学生はセックスに専心し大学は単なる社交場と化した。
僕はこのような問題に詳しくないからツッコミがあるのだろうけど、それを恐れないとすれば、僕としてはある意味で仕方のない動きのように思う。
社会が近代に飲み込まれ、その社会は学問を守るのではなく、飲み込もうとしてしまっているのだ。
そんな今だからこそ、学問徒達は学問の名において社会を批判するのだろう。
拙い話にそれてしまったが、その意味において生徒に与えられている自由とは学問を学ぶ自由であるように思う。
我々生徒は大学と言う場において学問を学ぶ権利を認められているのだ。
恐らく大学における教養過程はそこに至るまでの道として、甘んじてなるべくよい成績で通過すべきなのだろう。
では、高校教育において、生徒に認められた自由とは何であろう。
そこで、高校教育に認められた、学校の自由についてみてみたいと思う。
なお、我々の学校が中高一貫であることは問題をさらに複雑化させているように思うが、ここでは保留し、その特徴の類似性から、中学受験を高校受験と見なし、学園全体を高校教育と見なしてよいものとする。
大学のように学生もその学問の先端分野に触れられると言うわけではない点において、高校は一線を画す。
同様に社会の一員を育成するための義務教育とも、高校は違う。
ここで大学を学問機関として見なしたとき、その入学試験が定められている点からして、高校は教養過程における適正を育成する場ではないのだろうか。
もしくは大学に教養過程がない時の、中学教育と大学を結ぶ教養過程的役割を果たしているのではないだろうか。
成績がつけられるのは、その後の学問に影響があるからであろう。
しかし、そうした時、高校には学問の自由がないことになる。
だとすれば高校に残された自由とは何であろう。
学問の自由とは理論世界における自由であるように思えるし、だからこそ完全に自由を手にしているように思う。
そして理論的世界を除けば、実践的世界しか残されていないのだ。
詰まり高校に残された、そして高校生に残された自由とは実践的自由である。
では、実践と理論の自由度における違いとはなんなのだろう。
時間の都合で、次に回させてもらうことにしよう。