予感というよりは妄想

つまり、世界に自分が拒絶されている、もしくは認知されていない、のではないかという、ある種の過剰な自意識故の、焦りにも似た不安。
例えば、世界という存在は、僕が好きなあの人だけにも、僕が友人と認める全ての自己達とも、僕が存在するこの宇宙の全体とも設定しうる。
にもかかわらず、僕を支配しているのは、親による有罪宣告によって生じた、原罪という深層心理でしかない。
その無意識は、僕に僕を拒絶させることで、世界からの僕の拒絶を、強制的に連想させる。
無意識に、不可避に服従している僕の意識は、むろんこの不可避の服従が最も問題なのであるが、立ちすくみ、理論を打ち立てて無意識を斥けるための元気を失う。
そして、畏縮した意識を責め続ける無意識は、自らを省みることを知らぬが故に、僕は、僕に、永遠に拒否され続けられるのだ。
世界は自己の合わせ鏡だ。
しかし、自己は、環境によって形成される。
ならば世界は関わりを持ったことのある環境の集合か。
だが、環境は常に開かれており、最広義の世界は僕の知覚を待つばかりである。
僕は、更なる認識をしなければならないのだろうか。
世界は、僕の認識にその存在は左右されるのだろうか。
寧ろ、僕の認識は、僕の要求を、少なからず内包せざるをえないが故に、世界にとって負担となるに過ぎないのではないか。
この、無意識的な僕を彷彿とさせる理論を、やっつけられずにいる意識的僕は、体力や気力の不足だろうか。
それとも、本当の生き方としての理論を見つけていないから、意識が無意識に負けてしまうだけなのか。
意識は無意識に勝てるのか。
今、というか永久に、僕のことを認識する人はいるだろうか。
ある意味で、真っ当な人は、認識されることや、認識のされ方を望んだりはしない。
なぜなら、自分で自分を許容するような生き方をしているからである。
他者が支柱となる必要なく生きていることが、この世で真っ当とされる生き方であると僕は思う。
つまり僕がすることが出来ないことの全ては、真っ当な人にとって当たり前であること、だと、意識的な僕は認識するのである。
僕の生き方が近接してしまう人を僕は求められないが、僕の生き方と生き方が断絶している人を僕は求めてはならない。
今は、真っ当な人の、真っ当な表現形態の研究による真っ当さの追究でもしてみよう。
今は真っ当じゃないにしろ、真っ当にならなければならないと僕は思う。
真っ当が、個人差を含みえるかすらわかっていない、曖昧な状況に変化は訪れていないが。
僕は、、、僕は、、僕はまた答えを見失なってまったから、もう少し考えなくてはならないなあ。
久々にケータイにしては大量の文字を打ったが、初めてくらいに満足できていない。どこにかすら分からない。
 
PS:最近、mixi日記率が、内容に拘わらず上がってしまっている。
どうせ、どっちに書いてもいいような内容なので、本当に毬藻に申し訳なく、今後は、意識的に、はてなに書くようにします。