ロックバンドと言う偏屈な生き方

なぜ木村カエラ椎名林檎がロックと言う生き方を標傍出来ていないかを考えてみれば分かるかもしれない
それはロックと言う生き方は常にロックバンドと言う生き方でなければならないからだ
つまりそれは単に彼女たちがソロだからだ
バンドと言う相互補完的存在は
逆に言えばここの欠落性をあらわし
その欠落性をお互いに補いあうことを決心した
無論彼女らの活動の裏には常に同じ人間が音をつむいでいただろう
しかし表出する形態はあまりにも関係がありすぎると言える
固定メンバーが特定のファンに知られているだけでは不十分なのは
カテゴライズされる段階が重要なのは
未知な存在にとって外装は全てをきめるからだ
組しないものを率いれてはいけないが
組したかもしれぬものを暗に拒んでしまう可能性は除去されなければならない
固定メンバーは少なくともかくされるべきではないと言うのは僕のわがままかもしれないが
少なくともロッカーは、特にメジャーデビューした以上自己満足では済まされなくなるのだと言ってもよいのではないか
またロックと言う生き方が常に童貞でなければならない
それは世界に対する男女のあり方の違いを僕は肯定するということであり
それは分けられるべきだと考えるにすぎない
これは決して女性をロックから除外しようと言うものではない
しかし僕は社会的共同幻想の男女間の差異を無視することは既に出来ないと思っている
だからこそ童貞という存在と処女という存在を分けようというだけなのだ
これは現代の男性優位共同幻想において
生娘が社会に生息子より好まれていると言うことである
そのことによって非モテ男子という存在形態が社会にとって異様なものになっしまったと言うことであり
その社会の異常性のもとに歌わなければならないと言うことであり
その枠組みをいずれ越えなければならないという宿命を持つというのはロックに過度の期待をしすぎているだろうか
しかしロックには常に社会を変革していく端緒であってほしいというのが僕の願いである
考えが感情に変わらないうちにはなすのをやめたいと思う