借り物のタイトルなら無い方がましさ
そろそろ理論化しておかないと僕がまた僕自身を網棚に忘れてきちゃうから、さっきのサラダはとてもお腹いっぱいになったけど、書き始めよう。
それはたとえば今日みたいな夜におとづれる。
つまり、セインカミュを見なくなって久しくて、日本語を流暢にしゃべる外国人なんていないと思ってしまうほど自分のことしか見えなくなっているのに、日本人とそれ以外の人々の中間みたいな人たちが、日本人でもなぜか日本人崩れみたいな人々が入り乱れる町を、気丈な歌い手の妥協無き歌にすらよそよそしさを感じてしまうものだから、自分を励ます人を探し出してしまうんだ。
今日という日を呪うわけでは決して無いけれど、今日は近しいところで花火という日本伝統の、今や堕落してしまった、本来は奥ゆかしいイベントがあったらしくて、本当なのかうそなのか僕にはわからないけど、確かにそのように見える人々がたくさんいて、僕はその人たちを全て見下すことも全て尊重することもできないのに見分けがつかないから、焦ってしまって音量を上げてしまったんだ。
理由もうすうす気づいてる。コーヒーを二缶も空けてもまったくすっきりしないほどの僕の睡眠不足は、もちろん僕の不摂生な生活のせいであって、僕が済ませてしまっていた昼食のカロリーは、そのとき感じた不快感と共にとっくにどこかにいっていて、体調が優れないからお腹がすいた赤子みたいに体が悲鳴をあげて、お母さんを呼ぶみたいに泣き出して、それと一緒に心まで本とはそばにいる母を見失ったかのような気になってしまって、僕の大切な人々を一瞬にして忘却の彼方へ飛ばしてしまったんだ。
なぜに僕はこうまでに物質的なつながりや、現在進行形なつながりを求めてしまうのだろうか。
なぜ僕は僕に大切な人々がいることにだけで満足ができないのだろうか。
それもひとえに僕が人間だからなのだ。
あまりにも二面性を際立って持ちすぎている人間という存在。
決して概念なんぞ理解できずに日々の欲求を満たしてればよかったなんて思うことは無い。
それと同じで、悲しいかな概念だけでも生きていないことをそして今僕は証明し続けている。
それにしたって僕たちは悲しみが近くにいすぎるのじゃないか。
もう少し近くにあなたのぬくもりを感じさせてもらったっていいじゃないのか。
でも、それに没入してもいけないことと、そんなことしたって完全に癒されないこともわかっている。
けど、それにしたって他人のぬくもりを、画面越しに感じろとか、脳細胞に意志で働きかけろとかは無茶なのだ。
こんなときに思い出すのは宗教なのかもしれない。
仏教は修行で植物人間になることで現世のしがらみから開放されようとしたし、キリスト教はイエスという絶対的不幸者を据えることで自らの立場を幸福化しようとした。
でもそんなんじゃ今の僕は救われないのだ。
出ない声でロックンロールを叫んでしまう僕の弱い心と体は、もはや見失うことなき対象を思い描いてしまっていて、その妄想と想像の混同はいつの間にかその感触すら予感してしまっている。
過度の慎みを教わった僕は、そのゆがんだ欲望を自分で押し出す力よりも自分で抑制する力のが強くて、たまに端っこのほうから漏れ出すたびに、世界を不幸にさせる。
僕の変態の源泉はそこにあり、その漏れ出す感覚がたまらなく楽しく思えてしまって、間違うたびに自分を肯定してしまいそうになって、後になって後悔するのにその瞬間僕は変態になるのさ。
僕が満たされないのはそれだけじゃないけど、今日は特にこのことを強く思い出したから書いてみただけさ、あまり変態っぽくないのは、それだけ僕が満たされることを恐れているということでもあり、自分を客観できているということでもあるのだけど、まあいいや。
欲望が形を変えて欲望の波となって僕に押し寄せてきたみたいだ、そんなことしたって本質は癒せないのに。もう、とりあえず今日はみんなにお休みをいっておくのさ。
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