悲劇が繰り返されるんじゃない。僕が変われないだけだ

人生で3度目の基礎的な過ちをおかして、悲しみにくれるのさ。そんなカナシミは正しくなんてないのにね。
 
過ちを繰り返したのは、他でもない僕で、僕らは何も変わってなくて、ただ悲しむだけだ。
思い出すのはすれ違いで、思い描くのは正しさで、それでも僕は過ちしかおかしちゃいない。
僕の世界が今まで人にどんなことをされようとも、その瞬間に僕を動かしたのは、めちゃくちゃになってしまった僕の世界ではなくて、そこに立っていた僕だ。
でもなぜか僕はその僕の確信と欲求を押し殺して、また僕はもういやしない何かに恐れを抱いてしまって、体をすくめてしまったんだ。
僕の見るその光景は、刻一刻と変わってゆくのに僕だけが変われなくて、その僕だけが取り残されてゆくようで、僕が僕を生きていないような気すらしてきて、僕は僕を見失ってそして僕はカナシミの集まる癒しの巣へ足を向けてしまって、後悔して、その後悔を他人にぶつけて、そんな僕はいつものことを繰り返していて、泥沼の中で偽りのぬくもりを感じて、救われぬはずの僕を忘れようとしている。
寝れば忘れるし、食えば忘れるし、ヌけば忘れる。
でもそれは本当のことをすら忘れてしまうのだ。
僕は、僕の肉体的な部分のおかげで助けられているのかもしれない。
でも、こんな悲しい思いをしている過ちを、それでもいつの日か忘れてしまって、また同じことを繰り返しているようでは、概念を理解しているのにもかかわらずその行動だけは動物だ。
根本的な理解にいたることなく、表面を毎回なぞっているだけだから、僕は僕を救えずに、僕は過去の僕の道を繰り返すだけだ。
このプライバシーのない家で僕は僕を守ることを誤解して、カナシミの連鎖をつむぎだして、こんなこと僕だってしたくないのに…
謝罪の言葉だけが僕から吐き出されるけど、謝ってほしいのは僕のほうだ。
いつもそうなのに僕は、過去の僕、より正確にはその養育過程の歪みに支配されるままに、僕ではない誰かのような気がしながら、それでいて僕を、僕は生きる。
事故を客観化することはある意味で当たり前だったのだ。僕は僕の行動原理でなんか生きて養いのだから。
だからいつも僕は僕の衝動や欲求や目標を定めれば定めるほどに、ストレスをためる。
他人の言動に以上に気にしてしまう立ちなのだ。
僕を評価できるのは他者だからだ。
僕はもう、永遠に僕を生きれない。
もし僕が生きれるとしたら、特定の他者に絶対的に認められるという確信を抱けたときであり、悲劇はその悲劇性の範疇でしか克服されない。
この悲劇を超えることは、自己を越えることであり、自分でなくなることを予感させるのは、自己弁護の所産なのであろうか。
袋小路に気づけど引き返すこともできず、断崖絶壁を登る痛みも、限りない深海へ飛び込む痛みも、受け入れられぬ僕は体育座りをして助けを待つばかり。
一時の快楽と、つたなきその場しのぎと、くだらない知ったかぶりで自分を慰めるばかりで、何も解決せずに日々は続く。
少なくとも、僕はなんだったか、結論も出ぬまま夜は更ける。

さよならも言えないで