東京の夜さようなら

久々に東京に行ってその美しき洗練に出会って僕の心の田舎臭さに絶望した。
洗練が美しいのはその選択性ゆえである。
自分の意志のために、必要なことや欲しいものを捨てされる。
その美しさが都会たる東京にはあれど、エセ都会である横浜はそれを持てない。
都会の様相を呈した田舎は、その洗練だけを得られずに、本質的なところで欠如をきたし、本質において諦めの悪さを露呈する。
少なくとも僕は最早その洗練を求めながら得られぬ、田舎人。
例えそれがむなしさを呼ぶと言われても、僕はそのむなしさを受け入れるはずでなかったか。
塾に通いながら、今を生きると言う矛盾は間違いではないのか。
僕はそれを求めながらも、社交性のなさにそれを失い、不安定な均衡の上で偽物の洗練を生きる。
いっそこの心さえなければとも思うが、意志すらなくなれば傀儡になるのみ。
言わずもがなに、痛みをとろう。例えどんな結果が待ち受けようとも。