いつ我々はユーモアを失ったか

確かにユーモアは高度な理解力が要求されており大衆には永遠に納得できないものなのかもしれない。
番組の頭に部屋を明るくするように主人公が視聴者に促すのと、番組の内容が特定の存在を侮蔑するのではないことを責任者が宣言するのとではわけが違うのだ。
我々はユーモアの危うさを楽しめる頭脳を失ったのか?
いままでユーモアがブラックユーモアや明らかに何かをやゆする様な表現に堕する日がなかったとは言わないし、むしろそれに対する批判がなくてはユーモアという概念は成長しなかったろう。
しかし今回の一件はやはり過剰反応というべきではないか。
コメディアンを捕まえて、バカにするなと言ってしまっては全てが破綻するではないか。
しかも相手はこれまでの場面で一定の倫理感を示していたではないか。
ユーモアは対象をパロディ化するコメディアンを我々が更にパロディ化することで成立するのだ。
我々は真面目にみなければならないものと、不真面目にみなければならないものを何処で取り違えたのだ。
何故天才を貶め愚者を礼賛するのか。現代の不可解さは深まるばかり。
節制を失った愚者は数的に天才を凌駕し、社会を崩壊させ自らを破滅に導く。
民主主義は衆愚制へと堕ちることを定められているのかもしれない。
時は人を変えてしまうのだろうか。人は人を変えられるのだろうか。
この悲しみを何に向ければよいのか。