真実は、神に、また思い出させられて。

そして、友は、正しいことを示唆しあう仲のことをいうのだという拙い認識が降り立つ。
それはけして悲しみにはなりえない。
何故なら、それは自らの発展を促しテクれたということに関する喜びでしかないからだ。
真実に近づけたことを喜ばねば。
いつまで経っても幼児のような劣等感では成長とは呼ばれない。
悲しんでいる暇は、ますます無くなっていることに気付いていることを無視してはならない。
正しき生を、未だ求める、他愛なき童心。