恐怖

意見を提示することが怖い。
目の前にいる信頼できる他者ならば、僕の意見は意見でしかなくて、僕らは人格を許しあっていて、その議論に悲しみなんて生まれない。
レポートという場において、他者と相見え、しかも彼/彼女のことをほんの数mmもわからずに、僕の意見だけをしかし提出しようという、その行為に、恐怖を、腕が震えるほどの恐怖を感じる。
僕はこれでいいのか、しかしそれで間違っていたとして、レポートは再提出出来ないではないか。
この1回で僕はすべてを評価されるのだ。
しかも、僕の記憶力ではなく、人格の分身としての意見を。
しかしこの議論は全く持って正しくない。
1つには、他者からの自己認識を過剰に意識しすぎているが故に、自己の改善が自己の内部で完結しえないと認識してしまっている。
僕よ、何故僕によって僕を変えただけで、僕の進歩を満足しないんだ。
そしてもう1つには意見と人格をやはり混同してしまっている。
他者が、意見を乗り越えて、人格を否定したときに、僕はそれをナンセンスだと再解釈する能力が欠けすぎている。
もっとあなたとわかりあいたいのに、僕は僕を伝えることを恐れている。
僕は、この痛みへの恐れを乗り越えなければ、もはや生きる価値を失う。
僕のような凡人は、しかしあなた方に僕を聞いてほしいと思ってしまったのだから、誰よりも遅い場所から、始まらなければならないのだろう。
だけどできれば、僕の痛みを、分かち合ってくれる人がほしい。
これは僕の唯一の課題の、理論と現実の両側面からの見えである。