公的な場に書くことの意義。若しくはブログとはどこまで公的になれるのかについて。

公的な場に思考を表明することはそれが公的であると言う点においてそれを意味あるものにしているだろう。
我々はそれでもなお他者を前提化しなくてはならぬのではないだろうか。
ブログは開かれているがそれが公かと言う点で判断を難しくさせるもののように思える。
開かれていることと公であることは違うのではないだろうか。
やはりなおブログは電子上での責任のみを付するにとどめることが可能である。
現実の人格とリンクさせている人は多数いる。
しかしそれは一つのあり方にすぎず、ブログの性質としてそれが使用しようとする者にとって開かれており、読む者にとっても開かれていると思わされる。
しかし開かれていることと公であることは何が違うのだろうか。
つまりここに潜在的他者と実際的他者の違いがあるような気がしているのだ。
雑誌はブログとにており、それは読む者にも、そしてある程度の書く者へも開かれている。
しかしそれは公になる可能性を秘めているだけなのではないか。
しかし可能性と実態の違いはなにか。
それは独り言と対話の違いのようなものではないだろうか。
電車での僕のため息は誰かに聞かれているだろうが、それを僕は知ることが出来ず、友達と会話しているときお互いが聞いていることが前提であり、聞き逃しても聞きなおすのだ。
しかしこのとき雑誌はブログと漸近する。
その発行部数も、アクセス数も読まれたことを保証しないのだ。
しかしその開放性は対話を越える。
何が適切な方法論なのか。
その探求は続く。