ところでそれは真理だったか。と言う問いが依然として残されながらも言わねばならぬことがある。

大切にしなければならない尊厳はなにか。それがこの近代社会のテーマに照らされるとき、浮彫りになるのは個々人の権利に他ならないだろう。
我々の生息する社会の前提は権利主体としての人民の存在である。
 
彼等の主張が妥当性を持つためには人民の権利がそこにどれだけ保証されているかである。
つまり彼等は我々の権利を用いた行為によって権力を与えられた存在であり、それは彼等が最大限に人民の権利を保証することを要求されていること意味している。
どの場面においても彼等の権力基盤は人民である。
同時に彼等は彼等の部下の権利に責任を持つ。
つまり彼等は自らが部下を選出したことによって、彼等を人民より大きな形での義務を課す一方で彼等に人民以上の権利を彼等の権力ゆえに付したのである。
これはひとえに彼等の権力を元にして、そして権利を持つ彼らの同意に基づいて、彼らも権力主体の一環となることが決定されたからである。
かれらはこの時、彼等と彼らを合わせた一つの権力主体と人民に見なされる。
つまりかれらの決定は彼等と彼らの同意に基づく決定であるべきである責任が、人民の全ての権利が一つの権力主体であるかれらに付されていると言う事により生じるのである。
民主主義とは多数決では有り得ず、むしろ少数者の尊重にこそ基軸があるとすれば、かれらは人民の全ての権利に対して公正な行為をせねばならず、それは以上のことである。
 
 
これは私の判断であることを、私はここに宣言する。