与件としてしかあらわれることができない。

かれらが全人民を代表する権力を持っていると言うことは、いかなる他の権力主体の干渉も受けてはならないことを意味する。
かれらへの干渉は人民が権利を行使することでしか有り得ず、それでもなおカレラが代表する諸権利はかれらが代表する諸権利と等価であるから、かれらとカレラは権利として相対することのみ許されている。
また両者が等価であるのは、権利の量が等しいからではなく、御互いに一つの権力主体だからである。
かれらが行うことは、無権力な人民団体に一方的な干渉を受けることはないし、またそれらを退けることすら出来る。
しかし、権力を純粋な意味で持たない主体はどの規模においても存在し得ない。
よってかれらが拠とすべき基盤は公的であることと言う新たな基軸を導入することとなる。
これはその基盤にそれまで備わっていながら、それまでは議論に上らなかった基盤の性質にすぎない。
彼等は然るべき公的な行程を経た後その行程が認める限りの権力としての権利を得るのである。
そして彼等は今やかれらとなった。
かれらはその公的な行程にもまた指示されているのである。
かれらの行為は、その支持基盤ゆえに、公正なものであると見なされる。
これは重要なことであるが、そうである以上かれらは同時にそれを義務付けられているのである。
全ての権利は義務を伴うのであるが、またそれは独断的なものではあり得ない。
つまり我々の権利が認められる範囲には常にそれに付随してくる義務が存在し、権力でもそれは同じである。
 
 
ここに来て我々が考えねばならぬことはなにか。
それはこれが初期状態の(権力出現以前の)全ての人民の性善性もしくは強化されていると言うことである。
権力を得る主体は言うまでもなく善でなければならない。
しかし、それ以上に人民が善であること、そして人民が全てを判断できる状況下にあることである。
端的に知る権利などの議論は恐らくこのようなものであろう。
つまりはこの全ての議論の前提が問題であり、結論が問題なのである。