恵まれすぎた子供達は贅沢な悩みを抱く

そして、悩みを抱いている自分に酔う。そう、恵まれすぎたが故に、面倒臭い性格をしているのだ!(そこに内包されている不幸ともいえぬ不幸、不遇にしては生易しい不遇)
忘れてはならない。僕は、痛みを綴ることで外部化していたことを。外部化することで癒していたことを。本当の外部事象になど救われることを求めていただろうか。本当の外部事象に救われただろうか。

不粋さを忘れるな!

今の俺が先の俺に言えるのはこれくらいだ。
 
なにはどうしたって浮かれてしまうわけだから、過去の僕を捨て去らないように意地を張ることが目標になるのだ。
だけど、大事にしなきゃいけないに決まっている。だからバランスが必要だし、それを手に入れるために、理解されることなしには進めない話になってしまう。
頑張らなきゃいけないのだ。歯を食いしばって、幸せに身を任せて、頑張らなきゃいけないのだ。
 
でも、最近思うのは、大事にしてやれよって、第三者が言うのは、てめえの浮かれた顔なんて見たくないからデートでもしてろってことなんじゃあるまいか。ビクビク。

顔で笑って心で泣け!

僕は母親に罵られることをすら愛されてると思うことが出来たから、好意を無下にされることに慣れすぎている。投げやりな生き方をしてはいけない。今こそ矜持を取り戻すんだ。

体が言うことを聞かない。
欲望の手綱を制せられない。僕は鞭等打っていないけど、理性は崩壊してしまった。
外面は、言うまでもなく重要なのだ。人は内面だけでは生きていけないのだから。

担保と封殺

状況を整理してみよう。
といってもここで述べられることは少ない。少なくとも、僕の予想通りにはいっていないということだ。僕は物理的に会いたいし、とめどなく話がしたいし、できることなら手を握らせてほしい。しかしできていない。概要としてはそういうことになる。おそらくあの人は、こういう僕の心情の吐露をよくは思わないだろう。でも僕は我侭なのだ。
これは、僕は僕に対して決定論者過ぎるだろうか。無責任だろうか。そうだろうけど…

言うまでもなく僕は今、「カノジョもいねーのかよ」という無言の圧力(無言であるがゆえに感じるほうの責任)に対する担保をしてもらっているわけである。これは、まず間違いなく存在する。そしてこれは、相手が“自然消滅させたい”と思っているいないにかかわらず、1つの口約束から生まれえる心情である。

さて一方で、若い男子として、そこそこにいちゃいちゃしたいなーなんて。あー、贅沢贅沢。我慢しよ。ないものねだりが始まるんだし、どこかできっと。なら現状に満足すべき。以上。では!

俺のテンションが上がるかどうか

というパラメータはどれほど大事なのか。
 
最近、断ることが多くなってきてしまった。物理的に二カ所に存在しえないのならともかく、眠い、明日一限ある、歩いて行く気がおきない、など自らの感情の理由で断っているとき、自分に少なからず自信がないことを薄々感じてはいるのも事実なのだ。
むろん、これは言い訳に過ぎない。自らの申し訳なさを自らで断罪して、許しを請おうとしているのだ。なんて醜い生き方だろう。一体どれだけ許されれば気が済むのだ。
 
そして深い悲しみを誰も癒す事なく持て余してしまう、生命。

人は見かけによらない。しかし、それは例外があることを忘れないための警句でしかない。

というわけで、オシャレな眼鏡をかけてる僕もきっとそんなようなこと思われてるんだろうな。なんて思いながら久々の電車通勤。
 
今は俺が浮かれてるから続いているようなもので、いつか俺があの人に浮かれなくなる日が…
ああ、怖い怖い。未来の自分が見当たらない。当たり前とは言え、なんか変な不安が体の中を渦巻いている。どうしたんだ、俺。